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神威岬&神威岩の美しさ|女人禁制の解除|北海道積丹町

息を呑む美しい景観! 北海道積丹町(しゃこたんちょう)

神威岩(かむいいわ)

後志(しりべし)管内の積丹町の神威岬沖は、暗礁が多いため海難が起きやすく、かつて「魔の海」と恐れられていた。

神威岩は神威岬(かむいみさき)の400㍍沖に屹立(きつりつ)する高さ41㍍です。

神威(カムイ)とはアイヌ語で「神」を意味します。

 

【神威岩(かむいいわ)】

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(撮影時期:2019年10月7日)

 

神威岬から少し離れた海面に立つ神威岩。

その姿は衣冠(いかん:平安時代以降の貴族や官人の宮中での勤務服)をまとった神の立ち姿とも評される。

 

神威岬の先端に神威岬灯台と神威岩があります。

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 (出典元:Wikipedia)

 

地元ではアイヌ語の神にちなみ「御神威様」「オカムイ」などと呼ばれ、神格されてきた。

その背景として語り継がれているのが、源義経(みなもと の よしつね)とアイヌ民族の娘チャレンカの悲恋の伝説である。地元ではこう伝えられている。

義経は1189年(文治5年)、奥州(おうしゅう:現在の岩手県)・平泉で死んだとされるが、実は蝦夷地(えぞち)に渡り、積丹半島に逃げ延びて、神威岬から大陸を目指す。

義経を恋い慕って後を追ってきたチャレンカが到着した時は、義経らは既に出帆後で、チャレンカは悲嘆し「婦女を乗せた船がここを過ぐれば覆没(ふくぼつ:船などが転覆して沈むこと。)せん」との言葉を残して岬から身を投げ、その化身が神威岩である。

 

神威岬(かむいみさき)

大海原へとダイナミックにせり出した神威岬の先端までは、「女人禁制の門」から約770㍍。

 

【女人禁制の門】

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(撮影時期:2019年10月18日)

 

両側に日本海の雄大な眺めが広がる遊歩道「チャレンカの小道」をたどっていくと、20分ほどで周囲300度の丸みを帯びた水平線を見ることができます。

 

【チャレンカの小道】

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 (撮影時期:2019年10月18日)

「女人禁制の門」から神威岬灯台(正面奥)までの散策路は、伝説にちなみ「チャレンカの小路」と名付けられています。 

 

【遊歩道からの景観】

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ニセコ積丹小樽海岸国定公園(ニセコしゃこたんおたるかいがんこくていこうえん)

積丹半島は、北海道で唯一の海中公園に指定されているが、その海の青さは「シャコタンブルー」と表現されることもあります。

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【シャコタンブルー】

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積丹半島にある神威岬は、岬の付け根にある駐車場から先端部までは尾根沿いに整備された「チャレンカの道」と名付けられた遊歩道(770㍍:強風時は立入禁止)が整備され徒歩片道20分から30分ほど。

遊歩道の高台からは左手の行く手方向に起伏に富みダイナミックな景観を造る神威岬の景観が、右手には「水無しの立岩」が望める。先端部は岩山がそのまま海へ落ち込んでいく断崖絶壁になっており、沖には神威岩という岩礁がある。

遊歩道最先端付近からは周囲300度が見渡せ、水平線が丸みを帯びて見える。積丹半島は、北海道で唯一の海中公園に指定されているが、その海の青さは「シャコタンブルー」と表現されることもある。

貴重な動植物の宝庫ともなっており、夏にはエゾカンゾウが咲き乱れ、冬期にはオオワシやオジロワシも見られる。

 

開園時間&入園時間

神威岬入り口にはゲートがあり、時期により開閉時間が変わります。

 

【開門時間のお知らせ看板】

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(撮影時期:2019年10月18日)

4月 開園時間 8:00~17:30(入園時間 8:00~16:30)

5月 開園時間 8:00~18:00(入園時間 8:00~17:00)

6月 開園時間 8:00~18:30(入園時間 8:00~17:30)

7月 開園時間 8:00~18:00(入園時間 8:00~17:00)

8月~10月 開園時間 8:00~17:30(入園時間 8:00~16:30)

11月 開園時間 8:00~16:30(入園時間 8:00~15:30)

12月~3月 開園時間 10:00~15:00(入園時間 8:00~14:00)

神威岬は遊歩道の先端まで往復40分程かかりますので、閉門時間をご注意し、お時間がない場合は、女人禁制の門からの景色をお楽しみください。

女人禁制の門及び入口ゲートの開閉時間は、天候(雨・風)の状況により変更となる場合がありますのでご了承ください。

(出典元:https://www.kanko-shakotan.jp/spot/神威岬/

 

女人禁制の門

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その昔、神威岬は「女人禁制の地」として恐れられていました。

しかし、それも遥か遠い昔の伝説であり、今は「女性の通行も可能」になりました。

現在の神威岬は北海道有数の景勝地として、全国から多くの人々が訪れています。

岬の先端では、周囲三百度の丸を帯びた水平線を見渡すことができ、今なお昔と変わらぬ険しく神秘的な景観を見ることができます。

 

江戸時代、本州から和人が北を目指す中、松前藩は長く神威岬から奥地への女性の通行を禁じる。

「和人の女がここを通行すれば、海神の怒りにふれて船舶が覆没し、また、漁労が絶えると信じられている。」

積丹町史の古老の伝承に、1691年(元禄4年)から女性の通行が禁じられてきたと記す。

その開始時期は不確かながら、伝承は岬一帯が女人禁制の他になったゆえんでもある。

 

「女人禁制は民衆に広まっていたタブーを追認し、松前藩にとっては統治が効きにくい遠隔地への和人の定着を抑えのに都合が良かったと思われます。」

 

幕府は松前藩から蝦夷地(えぞち:北海道)を直轄化し、1855年(安政2年)に女人禁制を解いた。

そして翌年、箱館(はこだて:函館)奉行所の役人・梨本弥五郎(なしのとやごろう)が妻を連れて、宗谷(そうや:稚内)詰め赴任の際、神威岬を船で通過する。

 

「私は征夷大将軍(せいいだいしょうぐん)徳川家定(とくがわいえさだ:江戸幕府の第13代征夷大将軍)の家来である。今主君の命をうけて岬を通るのに、どうして神罰をうけねばならないか。」

弥五郎はこう叫び、岬に向けて銃を一発放ったという。その銃声は迷信を打ち砕くきっかけになった。

 

禁制解禁後、余市を含めて神威岬より奥地では鰊(ニシン)の漁場開発が広がり、人手が必要な定置網を使う漁場が増えて、日本海側で集落形成が急速に進みました。

 

神威岬への散策路入り口では、この地の禁制の歴史を示すため積丹町が1995年に設置した「女人禁制の門」が海風に吹かれています。

 

【梨本弥五郎と女人禁制の解除】

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「梨本弥五郎と女人禁制の解除」

その昔、神威岬の沖合は「魔の海」として多くの人々に恐れられており、「婦女子を同伴して行けば神霊の怒りにふれ、その船は必ず転覆する」という迷信があった。

安政2年(1855年)幕府が蝦夷地を直轄して開拓を計画してから、箱館奉行が神威岬以北に対しても移住民の土着を奨励した。

翌年の安政3年、箱館奉行調役下役元締の「梨本弥五郎」が幕府に宗谷詰めと赴任するよう命じられた。この命を受けた梨本は下役や妻子を連れて赴任するのだが、神威岬を通過する時、海は荒れ舟子たちは恐れおののいた。

しかし梨本は毅然と立ち上がり、岬の岩角に向かって大声で叫んだ。

「私は征夷大将軍家定の家来である。いま主君の命を受け岬端を通るに、なぜ神罰を受けなければならないのか」

そして、その岩角めがけて銃を撃ち放った。

銃声が波溝を打ち破り岬に響き渡ると、神霊の怒りはおろか海は穏やかそのもので、全員無事に岬を越え赴任地に着くことができた。

この梨本の岬越えがきっかけで、神威岬の女人禁制が事実上解かれたことになるのだが、しばらくは迷信の影響を受けてか、女性たちは自分のために海が大荒れになることを恐れ、船艫の板子の下に隠れたり、筵(むしろ)をかぶって全身を隠して通ったといわれる。

 

念仏トンネル

神威岬近くのワクシリ岬にある全長60メートルのトンネルです。

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1918年(大正7年)11月8日開通。

現在は立入禁止となっているが、以前は神威岬に行くには、このトンネルを通る必要があった。

1912年(大正元年)、灯台守の家族がワクシリ岬付近で荒波にさらわれ死亡するという事故が起きたのを契機に、1914年(大正3年)に着工した。

両側から手掘りで掘り進むうちに食い違いが生じ、工事が中断したが、村人たちが念仏を唱えて鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向が分かり工事が再開できたと言われている。このため、途中で2度折れ曲がっており、内部は真っ暗である。

念仏を唱えながら通ると安全であると言い伝えられている。

 

神威岬駐車場(料金:無料)

  • 所在地 : 北海道積丹郡積丹町大字神岬町
  • 時間  : 24時間可
  • 駐車台数: 178台程
  • 混雑予測: 繁忙期は混雑しますが満車になることは低い

 

【トイレ】

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【しゃこたん土産と喰処「カムイ番屋(ばんや)」】

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神威岬駐車場に隣接。こちらの駐車場にはこのお店(一軒)だけです。

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お土産品の販売コーナー。

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喰処は100席程(机+椅子)あり、くつろげるスペースです。

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メニュー;

岬丼¥2,750、塩ラーメン¥880、にしんぞば¥880、ビーフカレー¥850などの食事が楽しめます。

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シャコタンブルーのソフトクリームの販売店。

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神威岬のソフトクリーム

 

アクセス

神威岬には国道229号からアクセスします。

小樽や積丹岬方面から向かう場合は特に問題ありませんが、岩内など南から向かう場合、国道229号の神威岬トンネルを抜けたあと約220m先にあるT字路を神威岬方面へ曲がらなくてはなりません。

移動は自動車がお勧めです。

積丹町アクセスマップ

(出典元:積丹観光協会HP)

www.kanko-shakotan.jp


札幌、小樽、余市から自動車で移動される際に、国道229号線(余市町豊浜町)の沖合約500㍍の海上に45㍍を超える高さでそそり立つ「ローソク岩」が見えます。

岩質は輝石安山岩質のハイアロクラスタイト(溶岩が水中で冷やされたもの)で、もろい性質があるため、ローソク岩はこれまで何度か崩落が繰り返されきており、昭和10年代の大きな崩落により、現在の姿になりました。

その珍しい形から、地元の漁家やアイヌ民族に幾つかの伝説が残っており、またその周辺はかつて千石場所と呼ばれ、ニシンの良好な漁場でした。

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www.town.yoichi.hokkaido.jp

 

参考:源 義経(みなもと の よしつね)

源 義経(みなもと の よしつね:源義經)は平安時代末期の武将。

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝(よりとも)は異母兄。

仮名は九郎、実名は義經(義経)である。

河内源氏(かわちげんじ)の源義朝(よしとも)の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。

 

平治の乱(へいじのらん:平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。)で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)の庇護(ひご:弱い立場のものをかばって守ること。)を受ける。

 

兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。

 

その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行(どくだんせんこう:自分だけの判断に基づいて、勝手に行動すること。)によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。

 

全国に捕縛(ほばく)の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。

 

しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡(やすひら)に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。

 

その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説や物語を生んだ。

 

(実際には分からないが、人々には義経がいじめられたように見え、さらに義経は死んでいなく、北海道や中国に渡り生きているという噂(伝説)が実しやかに流れるようになった。これが一段と、「判官贔屓」と共に義経伝説と相まって広まった要因とされている。)

 

時代:平安時代末期 - 鎌倉時代初期

生誕:平治元年(1159年)

死没:文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 享年31歳

改名:牛若→遮那王(幼名)→義經・義行・義顕

別名:九郎、判官、廷尉、豫州(仮名)

墓所:宮城県栗原市判官森(伝胴塚)

   神奈川県藤沢市白旗神社(伝首塚)

(出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

まとめ

神威岬の770㍍手前に設置された「女人禁制の門」。

江戸時代末期に沖合を梨本弥五郎が妻を伴って通過するまでは、神威岬の海は迷信に満ちていた。

弥五郎の銃声で迷信を打ち砕いた緊張の海が穏やかに広がっています。

2020年は神威岬を満喫されてみてはいかがでしょうか。

最後までご覧くださいましてありがとうございました。
次回もよろしくです。