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「嫌われる勇気」あらすじ&感想です。

【心理学・自己啓発】
人間関係に悩み、人生に悩むすべての人におすすめしたい一冊です。

アルフレッド・アドラーは、フロイト、ユングと並び「心理学の三大巨頭」と称されています。

アドラーの心理学では、過去の「トラウマ」の存在を完全に否定したうえで、人間の悩みは、すべて「対人関係」の悩みである。

人は、この瞬間から「幸せ」になることができる。

 

本書は、対人関係を改善していくための具体的な方策が、「青年と哲人の対話篇」で展開されていきます。

 

人間関係で悩んだり疲れたりしているあなたに必ずお役に立つ1冊です。

この本のあらすじ(見どころ)&感想をまとめましたので、よろしかったらご参考にしてみてください。  

 

 

あらすじ(見どころ)

オーストラリア出身の精神科医アルフレッド・アドラー(1870-1937)が提唱するアルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)では、「人間はいかに生きるべきか?」、「どうすれば幸せになれるのか?」との問いに、きわめてシンプル且つ具体的な答えを提示しています。

 

第1夜 トラウマを否定せよ

「原因論 vs. 目的論」
  • あらゆる結果の前には、何らかの原因がある! と考える。
    これを「原因論」と呼びます。(※フロイトが提唱)
  • 人は過去の「原因」によって突き動かされるのではなく、いまの「目的」に沿って生きている! と考える。
    これを「目的論」と呼びます。(※アドラー心理学)

原因論と目的論の違いを以下の事例で説明して行きます。 

 

「引きこもり」

何年も自室にこもりっきりの人がいるとします。


普通なら過去に何らかのトラウマ(虐待を受けたなど)があって、その結果「不安だから、外に出られない」と受け止め、社会と上手くやって行けずに引きこもっていると考えます。

原因論では、あらゆる結果の前に、何らかの原因(トラウマ)があると考えます。

目的論では、先ず「外に出ない」という目的があって、その目的を達成するために、過去のトラウマから目的に合う感情(外に出たくないから、不安や恐怖などの感情)をつくり上げて行くと考えます。

 

原因論との違いは、過去にどんな辛いこと(トラウマ)があっても、引きこもりの理由にはならないと考える点です。

 

それでは「外に出ない」という目的は、なに?

 

あなたが引きこもりの親だったとしましょう。

もし、自分の子供が部屋に引きこもっていたら、どうすれば社会に復帰してくれるのか? どうすれば元気を取り戻してくれるのか? そして自分の子育ては間違っていたのか? 真剣に思い悩み、あらゆる努力を試みでことでしょう。


子供は親が心配する姿を見ると、親からの注目を一身に集めていることを実感します。

 しかし、家から一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない。

 

目的論では、大切に扱って欲しいとの目的があって、引きこもると考えます。

 

引きこもりの対処方法は、親は子供の引きこもりに介入せず、また過度に注目することをやめた上で、困っているときには、いつでも援助する用意があるというメッセージを送り続けることです。

親の態度を察知した子供は、引きこもりは自らの課題であることに気付き、時間は要しますが自らその課題を解決して行きます。

素直に親に相談しようと思えるようになるためには、普段からそれだけの信頼関係を築いておくことが重要です。

目的論では、過度の干渉は逆効果になると提唱しています。

毒親にならないように注意したいものです。

 

「ライフスタイル」

ライフスタイルとは、

狭義的な意味は、性格や気質のことで、

広義的な意味は、世界観や人生観... もう少し正確にいうなら「人生のあり方」になります。

例えば、「私は悲観的な性格だ」と思い悩んでいる人は、「私は悲観的な”世界観”をもっている」と言い換えるだけで、問題は自分の性格ではなく、自分の持っている世界観なのだと考えられます。

 

性格は容易に変えられないものだと考えがちですが、”世界観”と受け止めるだけで、案外受け入れやすいものです。

 

今のあなたのライフスタイルは、10歳前後に無意識の中で自ら選んだといわれています。


ライフスタイルは先天的に与えられたものではなく、自ら選んだものであるので、再び自由に選びなおすことができるのです。


一方、ライフスタイルを変えることの不自由さはあります。

例えば、今までは過去の経験則から判断できていたものが、ライフスタイルを変えることで経験則が通用できず、予測がつかないことで不安になります。


ライフスタイルを変えることは、我々の大きな”勇気”が試されることになります。


もし、あなたが今、幸せを実感できていなければ、それは「幸せになる勇気」が足りていないのかも...。

アドラー心理学の目的論は、「これまでの人生に何があっとしても、今後の人生をどう生きるかについて、何の影響もない」といっています。

今後の人生をどう生きるか?は、あなたのライフスタイル(人生のあり方)を、ただ選び直すだけでいいのです。それで前に進むことができます。

 

第2夜 すべての悩みは対人関係

「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」 

究極的には、我々の人生において、対人関係以外の問題はないように思える。

愛する人との別れや孤独ですら、他人がいてこそ悲しみや孤独を感じることができる。

個人だけで完結する悩み、いわゆる内面の悩みなどと言うものは存在しない。

必ず人の悩みには、他者の影が介在している。

何故ならば、人間のその本質において、他者の存在を前提とし、他者から切り離されて生きることなど、原理的にあり得ないからです。

  

「劣等感」

劣等感とは自ら意味づけした価値判断の問題になります。

もう少し説明を加えると、劣等感とは理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱き、自分には価値がないのだ、この程度の価値しかないのだ、と思うことです。

価値判断とは、自らその価値にどのような意味づけをほどこすか、自らどのような価値を与えるかになります。

 

例えば、身長が低いと思い悩んでいたとします。

そこに、他者(友人)からその悩みは「くだらない」と一蹴され、

なんとつまらないことで悩んでいたのだ! と気付けば、

今までの価値判断が転換(マイナス⇒ゼロorプラス)されるのです。

 

つまり、我々を苦しめる劣等感は、「客観的な事実」ではなく、自ら勝手に意味づけした「主観的な解釈」なのです。

 

「主観的な解釈」は自分の手で選択することが可能です。

 

見方を変えるだけで、プラスに活かせるのも劣等感です。

劣等感と上手く付き合えれば、飛躍の原動力にもなります。

 

その対極にあるのが、「優越感」です。

 人は無力な存在として、この世に生を受けます。

そして、その無力な状態から脱したいと願う欲求を持っています。

更に、「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」などを願うことを「優越性の追求」と呼びます。

優越性の追求」は、普遍的な欲求です。

 

優越性の欲求というと、他者より優れていようとする欲求、他者を蹴落としてまで上に昇ろうとする欲求のように思われがちですが、誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。

他者と自分を比較するのではなく、過去の自分より良くなりたいと願う欲求のことです。

 

「劣等コンプレックス」

 過度な劣等感を、劣等コンプレックスと呼びます。

 

劣等感は努力や成長を促すきっかけにもなりますが、劣等コンプレックスは自らの劣等感を、ある種の言い訳に使い始める状態のことを指します。

 

Aであるから、Bできない」という理論を振りかざすのは、劣等感ではなく、劣等コンプレックスなのです。

 

例えば、「私は学歴が低いから、成功できない」「私は器用が悪いから、結婚できない」と考えることです。

 

「Aであるから、Bできない」は、本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように、自ら納得してしまうことで、”見かけの因果律”と呼びます。

 

生きることにおいて、思い通りには行かないのが常です。

見かけの因果律を立てて、つい人生の課題から逃げようとするのは不味いのです。

  

「優越コンプレックス」

 過度な優越感を、優越コンプレックスと呼びます。

 

強い劣等感に苦しみながら、努力や成長といった健全な手段に取り組む勇気がない。

また、「Aであるから、Bできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。

そんなできない自分を受け入れられず、もっと安直な手段によって補おうとする考えです。 

 

それではどうやって補うかというと、あたかも自分が実際よりも優れているかのように振る舞い、「偽りの優越感」に浸ることです。

 

身近な例では「権威付け」です。

 

例えば、学歴、経歴、高価なブランド品を持ち歩く人、過去の栄光にすがりつく人、自分の手柄のように自慢する人など、権威の力を借りて自分を大きく見せている人です。

他者からどう見られているかを非常に気にするあまり、結局他者の価値観に生き、他者の人生を生きているのです。

 

ありのままの自分で普通であることの勇気を持ちことが必要です。

 

「不幸自慢」

不幸自慢とは、自分の不幸を自慢し、劣等感そのものを先鋭化させることで、特異な優越感を持つことです。

不幸であることによって、「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとするのです。

自らの不幸を武器に、相手を支配しようとすることです。

  

対人関係の悩みから生まれる劣等・優越コンプレックスから抜け出すには、

  • ありのままの自分であることの勇気を持つ
  • ライバルを持つことは良いが、ライバルと競争する必要はない。
  • 能力を上げるには、上を目指すのではなく、ただ前を向いて歩けばよい。
    (理想の自分をイメージして、今の自分より前に進もうとすること)

 

人は一人で生きて行くことなど原理的にあり得ない。

個人としての「自立」、社会における「協調」を大きな目標に掲げ、

その目標を達成するには、「仕事」「交友」「愛」という3つの「人生のタスク」に向き合い、そのタスクを乗り越える必要があるのです。

3つの人生のタスクは、

  •  仕事のタスク:何かしらの仕事に従事すること。
    (企業で働くといった狭い意味ではなく、家庭、地域活動、ボランティア活動など)
  • 交友のタスク:成長して行く過程でのさまざまな交友関係
    (家族、友人、親戚、近所、先生など)
  • 愛のタスク:恋愛関係、夫婦関係、親子関係

 

第3夜 他者の課題を切り捨てる

「承認欲求」

 他者から承認されれば、自分は価値があるのだと実感することができる!

また、他者からの承認を通じて、劣等感を払拭することができる!

承認欲求こそ、我々を突き動かす普遍的な欲求である!

と考えることについて...。

 

このように考えるのは賞罰教育の影響と考えます。

何故ならば?

  • 適切な行動をとったら、褒めてもらえる。
  • 不適切な行動をとったら、罰せられる。

 

この先にあるものは...。

  • 褒めてくれる人が居なければ、適切な行動をしない。
  • 罰する人が居なければ、不適切な行動もとる。

という、誤ったライフスタイル(行動)になります。

 

誤ったライフスタイルでは、褒めてもらいたいという目的が先にあって、ゴミを拾うのです。

だから、誰からも褒めてもらえなければ、ゴミを拾った行為に憤慨(ふんがい)するか、二度とこんなことはするまいと決心してしまうのです。

これは明らかにおかしな話です。

 

他者からの承認を求めることは、他者からの評価ばかり気にしていることになり、本当の自分を捨てて、最終的には他者の人生を生きることになるのです。

それゆえ、他者からの承認を求めることは好ましくないのです。

 

人生は見返りを求める「give & take」ではなく、見返りを求めない「give & give」と割り切れば、承認欲求を求めることはなくなるのです。

  

「課題の分離」

 この課題は、誰の課題なのか?という観点から、自分の課題と他者の課題とを分離することです。

 

あらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることで生じます。

 

それでは、これは誰の課題であるのか? を見分ける方法は、「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰か?」と考えます。

 

「引きこもり」のような場合では、

  • 引きこもっている状態から抜け出す?
  • それとも抜け出さない?
  • 抜け出すとき、どうやって抜け出す?

これは原則として本人の課題であり、本人が解決すべきなのです。

  

親は、引きこもりは子の課題なので、そこには介入せず、また過度に注目することをやめた上で、困っているときには、いつでも援助する用意があるというメッセージを送り続けるだけです。

そうすると、親の変化を察知した子供は、この引きこもりは自らの課題であることに気付き、この課題を解決することを考えて行きます。

この課題を解決したいと思うときに、素直に親に相談できるように、普段からそれだけの信頼関係を築いておく必要があります。

 

この課題の分離は、対人関係の最終目標ではなく入口です。

ゴールは「共同体感覚」(第4夜参照)になります。

  

「承認欲求は不自由を強いる」

 他者の期待を満たすように生きるのは楽です。

自分の人生を、他人任せにしているのですから。

例え、親が敷いたレールの上を走ることになっても、

レールの上を走っている限りにおいて、道に迷うことはありません。

 

他者からの承認を選ぶということは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても、嘘をつき続ける生き方なのです。

つまり誰からにも嫌われない生き方です。

しかし、非常に不自由な生き方です。

それとも承認なき自由の道を選びますか?

   

「本当の自由とは」

「誰からも嫌われたくない」

「わざわざ嫌われたいと願う人など、どこにもいない」

きわめて自然な欲望であり、普遍的な欲求です。

 一方、私のことを嫌う人もいれば、あなたのことを嫌う人もいるのも事実です。

 

対人関係の悩みから解放されること、対人関係から自由を求めることは、他者から嫌わることです。

 

しかし、自由を行使したければ、そこにはコストが伴うのです。

対人関係における自由のコストは、他者から嫌われることなのです。

 

他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫きたい。

つまり自由に生きたい。

幸せになる勇気には、嫌われる勇気も含まれます。

その勇気を持ちえたとき、あなたの対人関係は一気に軽いものへと変わります。

   

「対人カード」

課題の分離が理解できれば、すべての対人関係のカードは自分が握っていることに気付きます。

対人関係というと、「二人の関係」や「大勢との関係」をイメージしますが、先ずは自分からです。

承認欲求に縛られていると、対人関係のカードはいつまでも他者の手に握られているのです。

人生のカードを他者に委ねるか、それとも自分が握るのか。

 

承認欲求を期待せず、冷静に課題の分離を進めると、対人関係の荷物を軽くすことができ、対人関係のカードも見えてくるはずです。

 

第4夜 世界の中心はどこかにあるか

「共同体感覚」

 対人関係のゴールは、共同体感覚になります。

 

共同体感覚とは、他者を仲間と見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じらえることをいいます。

共同体とは、家庭、学校、職場、地域社会だけでなく、国家や人類などを包括したすべてで、時間軸において過去から未来まで、動植物や無生物まで、そして宇宙全体までも含んだ、文字通りの「すべて」が共同体なのだと。

アドラー自身も、自ら語る共同体について「到達できない理想」と認めています。

 

改めて、「すべての悩みは、対人関係の悩みである」と考えます。

不幸の源泉は対人関係にあり、その逆の幸福の源泉も対人関係にあるのです。

 

共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考える最も重要な指数なのです。

 

わたしとあなたの二人の人間が居たら、そこに社会が生まれ、共同体が生まれます。

先ずは、わたしとあなたを起点にします。

 

共同体の所属感とは、ただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自ら積極的にコミット(人生のタスクに立ち向かう)することによって得られるのです。

 

つまり、仕事、交友、愛という対人関係のタスクを回避することなく、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければなりません。

 

生まれながらに与えられるものではなく、自ら何かを与えて、自らの手で獲得して行くものなのです。

  

改めて共同体の範囲は、家庭や社会のように目に見えるものだけでなく、目に見えないつながりまで含んでいます。「無限大」と考えます。

我々は実際に、家庭、学校、会社、地域社会、国家に属し、これらの複数の共同体に所属しています。

 

学生が、「学校」の共同体を全てであると思い込み、そこでいじめなどのトラブルに遭遇すると、小さな共同体である家庭の中に逃げ込み、引きこもりになることがあります。

これは、どこかの所属感を得ようとするからです。

 

しかし、ここで注目してほしいのは、「もっと別の共同体があること」、特に「もっと大きな共同体があること」に気付くことです。

 

もし、学校に居場所がないのなら、学校の「外部」に別の居場所を見つければいいのです。

例えば、転校であったり、退学であったり、ひとたび世界の大きさを知ってしまえば、自分が学校で感じていた苦しみは、コップの中の嵐であったことに気付きます。

 

対人関係の中で、困難にぶつかり、出口が見えなくなったとき、初めに考えることは、「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。

 

学校なら学校という共同体のコモンセンス(共通感覚)の中で物事を判断せず、より大きな共同体のコモンセンスに従うのです。

 

ある一つの共同体の関係だけに注目し、そこだけの対人関係が壊れることだけを恐れて生きることは、他者のために生きる不自由な生き方になります。

  

「横の関係」

 「課題の分離」からどうやって良好な対人関係を築き、最終的に「ここにいてもいいんだ」と思える「共同体感覚」にどのように進むのか? その道筋は?

そのためには、仕事、交友、愛という人生のタスクを、どのようにして乗り越えるのか?

 

ここで重要になるのが、「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。

 

縦の関係は、褒めたり叱ったりする上下関係で、「褒める」とは、上から下に向けって下す評価になります。

横の関係は、あらゆる人に対して、同じではないけど対等という関係です。

 

対人関係を縦で捉えると、相手を自分より低く見ているので、介入(命令など)してしまいます。

対等に見てもらっていなかったことに気付くと、自分には価値があるとは思えません。

一方、横で捉えることは、対等で見ていることなので、そこには介入ではなく、援助(サポート、支援など)になります。

この援助を「勇気づけ」と呼びます。

 

横の関係において相手にかける言葉は、「ありがとう」「助かった」のお礼の言葉や、「うれしい」と素直な喜びの言葉です。

この言葉を伝えることで、勇気づけになります。

 

人は感謝の言葉を聞いたとき、自ら他者に貢献できたことを知ります。

自分が誰かの役に立っていると思えた時に、自分には価値があると実感し、課題に立ち向かう勇気がもてるのです。

 

第5夜 「いま、ここ」を真剣に生きる

「対人関係の最終目的地は共同体感覚」

 共同体感覚を考える上で、先ず「私」について、しっかり理解する必要があります。

続いて1対1の関係、つまり「私とあなた」の対人関係を考え、それから大きな共同体が見えてくるのです。

  

「自己への執着」から「他者への関心」に切り替え

「自己への執着」から「他者への関心」に切り替えることで、共同体感覚を持てるようになります。

切り替えに必要になるのが、「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つです。

  

自己受容」とは、自ら嘘をつくことなく、仮にできないものがあれば、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるまで前に進んでいくことです。

 

例えば、60点の自分に「今回はたまたま運が悪かっただけで、ほんとうの自分は100点なのだ」と言い聞かせることが自己肯定(優越コンプレックス)になります。

 

それに対して、60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくにはどうしたらいいか」を考えることが自己受容(優越性の追求)です。

 (※優越性の追求とは、人は誰しも向上したいと思っている普遍的な欲求です。)

 

逆の言い方をすると、100点満点の人は?一人もいないということです。

 

そこで100点満点を追い求める中で、「変えられるもの」と「変えられないもの」があり、それに気付き見極める必要があります。

 

「なにが与えられているか」については、変えることはできません。

一方、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えて行くことができます。

「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するのです。

 

自己受容とは、「変えられないもの」やありのままの「このわたし」を受け入れた上で、「変えられるもの」については、変えていく「勇気」を持つことです。

 

我々は何かの能力が足りないのではありません。ただ“勇気”が足りていない。

すべては“勇気”の問題なのです。

  

 「他者信頼」とは、他者を「敵」から「仲間」と思い、信頼することで、誰とも深い関係を築くことです。

 

「自分に出来ること」と「自分に出来ないこと」を見極めることさえできれば、もし他者に裏切られても、この裏切りが他者の課題であることが理解でき、他者信頼に踏み込むことも難しくなくなるはずです。

 

他者貢献」とは、「私」を捨てて誰かに尽くすこと(自己犠牲)ではなく、むしろ「私」の価値を実感するために、なされるものなのです。

 

他者がわたしになにをしてくれるかではなく、私が他者になにを出来るかを考え実践することです。

 

ここで「わたしは誰かの役に立てている」と思えただけで、自らの価値を実感することができます。

  

人生の目標は、人生のタスクを通じて共同体感覚を得ることです。

行動面の目標

  1. 自立すること
  2. 社会と調和して暮らせること

この行動を支える心理面の目標

  1. わたしには能力がある、という意識
  2. 人々はわたしの仲間である、という意識

 

1の「自立すること」と「わたしには能力がある、という意識」は、自己受容です。

2の「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である、という意識」は、他者信頼であり、他者貢献につながります。

   

普通であることの勇気

「特別によくあろう」とすることがくじかれたと、「特別に悪くあろう」とすることに極端な飛躍をしてしまうことがあります。

何れも目的は同じで、他者の注目を集め、「普通」の状態から脱し、「特別な存在」になることだけを目的にしているのです。

「普通であること」は、「無能であること」ではありません。

わざわざ自らの優越性を誇示する必要はないのです。

 

安直な優越性の追求

本来、勉強であれスポーツであれ、なにかしらの結果を残すためには、一定の努力が必要になります。ところが、上手く行かなった場合(特別によくあることが叶わなかった場合)、今度は一転して「特別に悪くなろう」します。

すなわち問題行動に走る子供達には、そうした健全な努力を回避したまま、他者の注目を集めようとします。

 

ユダヤ教の教えより

「10人の人が居るとしたら、そのうち1人はどんなことがあってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2名は、お互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。残り7人は、どちらでもない人々だ」

嫌わることを恐れる必要はないのです。

 

 人生の意味とはなにか? 人はなんのために生きるのか?

その答えは、「一般的な人生の意味はない」「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」。

  

人が自由を選ぼうとしたとき、道に迷うことは当然です。

自由なる人生の大きな指針として「導きの星(他者貢献)」というものを掲げます。

 「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うこともなく、なにをしてもいいのです。

嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わない。

 

 あなたにとっての人生の意味は、「いま、ここ」を真剣に生きていることです。

目標など、なくともいいのです。

「いま、ここ」を真剣に生きていれば、人生の意味が明らかになるでしょう。

  • 人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。
  • 過去が見えるような気がしたり、未来が予測できるような気がしてしまうのは、あなたが「いま、ここ」を真剣に生きておらず、うすらぼんやりとした光のなかに生きている証である。
  • 人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。
  • あなたが過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。
  • 過去にどんなことがあっても、あなたの「いま、ここ」には何の関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。
  • 目的地は存在しない。目的は、登頂⇒登山(山頂にだどり着くかどうかは関係ない)
  • 計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、不可能なのです。

 

「ひとりの力は大きい」「わたしの力は計り知れないほどに大きい」

世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。

 

誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。

それならば、あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうか考えることなく。

  

アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になると言われています。

これは、理論は納得できても、実践が難しいことを意味しています。

40歳から実践して生き方まで変わるには、プラス20年が必要で、60歳までかかのです。

実践は困難でも、理論だけでも納得されることをお勧めします。

 

 まとめ

世界的ベストセラーの『人を動かす』や『道は開ける』で知られるデール・カーネギーは、アドラーのことを「一生を費やして人間とその潜在能力を研究した

心理学者」だと紹介しています。

また、スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』でもアドラーの思想に近い内容が語られています。

アドラー心理学は、堅苦しい学問ではなく、人間理解の真理・到達点として受け入れられています。

 

今回、「嫌われる勇気」を通じて、初めてアドラー心理学に触れました。

この本は、学問のための学問ではなく、対話形式でストリーが書かれ、初めての人にもほとんど抵抗なく、アドラーの思想が分かりやすく読みとれる構成になっています。

 

対人関係に悩んだ経験のある人、今悩んでいる人、この1冊に触れることで、妙に納得感が得られると思います。

よろしかったら是非一読されますことをお勧めします。

(私はどストライク!でした。

 

最後までご覧くださりありがとうございました。

次回もよろしくです。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え